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青木 保(あおき たもつ〔家臣人名事典編纂委員会。〕、1852年1月3日(嘉永4年12月12日〔田中。〕) - 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 == 来歴 == 青木元永の長子として備中国足守に生まれる。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学〔。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け〔東京大学百年史編集委員会編 『東京大学百年史 通史一』 東京大学、1984年3月、ISBN 4130010514、174-175頁、179-184頁、266-271頁。『壬申四月改 南校一覧』 人名表5丁表 。『文部省雑誌』明治6年第2号、10-11頁。『第一大学区 第一番中学一覧表』 1873年3月 。〕、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学予科に編入されている〔前掲東京大学百年史編集委員会、284-287頁、297-299頁。『文部省雑誌』明治6年第3号 、10頁。同誌明治7年第11号 、1-2頁。所澤潤 「大学進学の始まりと旧制高等学校教育の起源 : 明治七年三月のモルレーの建言のもたらしたもの」(『東京大学史紀要』第14号、東京大学史史料室、1996年3月 )24-25頁、32-35頁。『文部省雑誌』明治7年第15号 、1-2頁。『東京開成学校一覧 明治八年二月』 50-51頁 。〕。 明治8年(1875年)7月、退学して兵庫県に出仕し、外国課通事として勤務〔田中。大植。〕。明治10年(1877年)1月、官立大阪師範学校の教員に転じ、翌明治11年(1878年)1月には校長心得を命じられたが、同校は2月に廃止。その後、同年5月に秋田県師範学校副校長となり、7月には秋田県五等属に就任。翌年1月まで県学務課長兼師範学校長を務めた〔「公文録・明治十七年・第百九十七巻」。〕。 明治12年(1879年)2月、太政官六等属となって調査局に勤務し、のち会計部に移った〔。明治13年(1880年)6月、文部省五等属に転じて官立学務局勤務となり〔、以後長らく同省に在職。明治17年(1884年)7月に准奏任御用掛、翌明治18年(1885年)8月に文部権少書記官に進み、文部書記官、文部省参事官、文部書記官兼文部省参事官を経て明治28年(1895年)10月に退官した〔『官報』第324号、1884年7月28日、5頁 。同誌第645号、1885年8月24日、301頁 。同誌第798号、1886年3月4日、40頁 。同誌第2440号、1891年8月17日、140頁 。同誌第2871号、1893年1月26日、250頁 。同誌第3125号、1893年11月28日、341頁 。同誌第3697号、1895年10月24日、335頁 。〕。省内では明治18年12月に大臣官房第一課長心得となったのち、明治19年(1886年)3月から退官までのほとんどの間文書課長を務めたほか〔『官報』号外、明治18年12月29日、3頁 。同誌第799号、1886年3月5日、57頁 。同誌第2099号、1890年6月30日、329頁 。同誌第2440号、1891年8月17日、145頁 。同誌第2808号、1892年11月5日、41頁 。同誌第2871号、1893年1月26日、250頁 。〕、明治19年1月から翌月まで音楽取調掛主幹を、明治22年(1889年)3月中に東京教育博物館主幹を、明治23年(1890年)7月から明治25年(1892年)11月まで専門学務局第一課長を、明治26年(1893年)1月頃および明治27年(1894年)2月から翌年4月まで図書課長を兼務している〔『東京音楽学校一覧 従明治廿二年至明治廿三年』、11頁 。『官報』第1708号、1889年3月13日、134頁 。同誌第1713号、1889年3月19日、198頁 。同誌第2119号、1890年7月23日、273頁 。同誌第2446号、1891年8月24日、238頁 。同誌第2813号、1892年11月11日、111頁 。『明治二十六年 職員録 甲』 308頁 。『官報』第3125号、1894年2月19日、209頁 。同誌第3538号、1895年4月19日、223頁 。〕。 明治41年(1908年)3月27日、急性肺炎により東京牛込区天神町の自邸で死去。享年58〔大植。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木保 (文部官僚)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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